2022.08.27Blog
飼い犬が死ぬという経験は、誰にとっても辛いものだろう。
かく言う私も、一年ちょっと前に大切な愛犬を亡くした。
死因は老衰。
老衰は、死因の中でいちばんおだやかで自然な『いのちの終わりかた』である。
「老衰ならいいじゃない、良かったじゃない」と言う人もいるだろう。
「天寿をまっとうしたのだからいいじゃない」と。
もちろん、見送る立場としても見送られる立場としても、一番の理想が「老衰」だと言えるだろう。
けれどはたして、どれくらいの人がその『老衰』『自然死』というものにきちんと向き合えているのだろうか。
老衰つまり自然死とはすなわち〝餓死を待つ〟ということ。
水や食べものを欲しがらなくなるため、無理矢理あげることをしない。
身体が〝終わりへの準備〟をしているので、それに逆らわずに一緒にその時が来るのを耐えて待つ。
私の場合、愛犬に対して延命治療はもちろん、点滴とか栄養注入もしなかった。
ただ身体が枯れるのを待つのだ。
水さえ受け付けなくなって約一日。
首を伸ばしたまま横たわり、意識朦朧の状態で時おり大きな声で「ウォォーーッ!ウォォーーッ!」と声をあげ、引きつけを起こす。
そのたびに優しく身体をさすり、声をかける。
それが何時間も続く。
見ているのが辛いと言う人もいるだろう。
可哀想だと言う人もいるだろう。
けれどこれを見守るのは飼い主としての義務であり、愛犬を見送るのが飼い主のさいごの仕事なのだ。
自然に心臓が動かなくなって、自然に呼吸が止まるまで、いのちが「もう少し、あと少し」ってがんばっている感じで、鼓動や呼吸がひとつひとつ繰り返されていく。
そして、終わりのときは静かにやってくる。
私の大切な相棒は、〝死〟をもって、いのちに対して最もシンプルで素直な見つめ方・向き合い方を私に体験させてくれた。
私は動物病院を批判することは決してしない。
動物病院は、困ったときにはいつも頼りになる存在であり、我々が学んでいない分野に関して非常に豊富な知識・経験を有しておられて、本当に心強いと心底感じている。
けれど、人間の医者にしろ動物の医者にしろ、「生死」をコントロールできるものではないと私は思っている。
身体が『終わりの準備』をしているのに、無理やり栄養を補給したり不自然にいのちを長らえさせるのは、私としては正しい行為とは思えない。
『死』は自然なもの。
生き物が生まれることと同じこと。
生まれるときはメディアでもクローズアップされやすく、感動を呼びやすいけれど、『死』こそクローズアップするべきであると私は思う。
ペットを飼うということは〝生〟と〝死〟を体験するということ。
〝生〟はもちろん素晴らしいけれど、〝死〟も同様に素晴らしく尊ぶべきものである。
今や医療・獣医療ともに発達して、難病に立ち向かったり、今まで不治の病だったものが完治するようになったりと目覚ましい発展を遂げている。
それでも『死』を回避する術は、いまだ見つかっていない。
つまり、『死』は抗いようのない自然なことなのだ。
死にゆく側が「あと少し、もう少し」と生命欲をあらわにしていればそれをしばし叶えてあげるのは良いとしても、こちら側の勝手な延命治療や栄養補給などは、生きている『残された側』の自己満足なのかもしれない。
「行ってきます」と言われて、素直に「行ってらっしゃい」と言えるように。
「ダメ!まだ行かせない!」とかメンヘラ彼女みたいにワガママ言わないように。
自然な流れでお見送りをできるように、心の準備をしておきたいものである。